福島潟ですが、かつては新発田藩の所領地だったのです。
- 雪だるま
- 2020年6月23日
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日本海に面し、日本列島の本州をそのまま小さくしたような形の新潟県。いにしえの時代から越後平野の湖や沼など成り立ちに関わらず、総称して新潟という字にも使われている潟と呼ばれてきました。
現在も多くの動植物が生息する潟の環境は、人間が潟の恵みを享受することで、大切に守られてきたのです。
潟と名の付く湖で新潟県内最大のものが、新潟市北区と新発田市にまたがる福島潟です。現在は、新潟市北区に属する福島潟ですが、かつては新発田藩の所領地だったのです。
新潟県の北東部、山形県の境から日本海へと広がる新発田市。新潟平野北部の平坦地が開けた地域は、飯豊山地を水源とするかじ川が貫き、川に沿うように町並みが形成されました。
JR 新発田駅を出て歩くこと20分ほど、水面がきらめくお堀と共に現れたのが、町のシンボル新発田城跡です。

鎌倉時代初期、この地にやってきた新発田一族の館が置かれたのが始まりとされている新発田城ですが、いくつかの変遷の後、江戸時代になって溝口秀勝が城主となると新発田は急激に発展を遂げるのです。
溝口秀勝は、新発田一族の古城跡に新たな城を構築し、新発田城となっています。また、この時、城下に作られた家臣団の町屋が、現在の新発田市街の起源とされているのです。
溝口秀勝の新発田城は、湿地に臨んだ低い大地を利用して築かれ、梶川の水を掘りとして引き入れ、周囲を固めたところから、浮舟城あるいは舟形城とも称されていました。
江戸時代が終わると、明治政府の城郭破却令によって取り壊されます。しかし、本丸の一部と石垣が構築されている。南側部分の堀、本丸、表門、旧二の丸、隅櫓(すみやぐら)は現在も残され、王子の城郭な姿を今に伝えているのです。

溝口家10代に渡る政治の下ので新発田藩は、町の形状、道路、水路を整えました。
中でも新発田川の改作は戦略的な防御のための堀。物資を運搬する人いる生活用水として、江戸時代から明治大正時代にも新発田の人々の生活を支えるものでした。
生活様式の変化で役割は薄れていきましたが、現在もその川筋はほとんど当時のまま残っており、新発田の町は新潟県北部における商業中心地となっています。
ちなみに、新発田とはいっても背番号7のあの柴田という選手ではなく新しく発展する田んぼとかく新発田です。
#潟 #溝口秀勝 #新発田
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