#須賀川 #伊達政宗 #松明あかし
福島県のほぼ中央にある郡山市に隣接する須賀川市は、地域を大河・阿武隈川と釈迦堂川が南北に貫き、その間を町の名前にもなっている須賀川が心地よいせせらぎを奏でています。
通称、下の川と呼ばれる須賀川の川沿いに、須賀川市を代表する景勝地がありました。緑ヶ丘公園です。標高278 mの愛宕山を中心に、五郎山、妙見山、琵琶池からなる東京ドーム6個分の広大な公園は、須賀川市が全国に誇る日本三大祭りの一つ松明あかしの会場として知られています。
松明あかしは、420年前にこの地で起きた出来事を今に伝える行事なのです。1444年、須賀川城は二階堂為氏によって築かれました。為氏は、近隣の大名達との政略結婚を頻繁に行い、争いを避ける政策を取ります。これによって、二階堂為氏は小さな領主ながらも150年近くもの間、須賀川一帯を治めていたのです。
1589年、会津の芦名氏を滅ぼした伊達政宗が須賀川へも触手を伸ばしてきました。ただし、二階堂側には伊達政宗の実の祖母がいたことから政宗も須賀川勢と戦を交えることを望まず、再三にわたって書簡による降伏を迫ります。
ところが、二階堂氏は譲らず勝ち目のな戦に挑むこととなるのです。須賀川では侍ばかりか、百姓、町人までも立ち上がり、松明を手にして集まると、須賀川城で籠城することを決めます。
独眼竜と恐れられた伊達政宗の調略は万全でした。須賀川城内には伊達側と内通するものが入り込んでいたのです。内通者が白の内側から火をつけると、多くの犠牲者とともに須賀川城は落城するのです。
松明あかしは、この戦いで亡くなった二階堂家と地元良民だけでなく、伊達側の戦死者の人口も含まれているものなのだそうです。新しい領主の女を憚りイタチ退治と称して、続けられた火祭りは420年以上にわたる須賀川の伝統行事となったのです。
胴回り2 m 高さ10m 重さ3tの巨大な松明30本が、松明太鼓の轟と共に紅蓮の炎をあげて燃え盛る松明あかしは、毎年、晩秋の11月の第2土曜日に行われていますが、この中の今年は無観客関係者のみでの実施となるようです。松明あかしは、今年も伝統行事の継承先人への思いとして行われるのです。
Comments