芝浦とジュリアナ東京
東京湾に面する港区芝エリア。芝浦を散策していると倉庫街などの街並みから元々は東京湾の海だった埋立地であることはイメージできます。
ですが、実は芝浦というのは歴史が古く、戦国時代の1486年に書かれた『廻国雑記』にも、既に記載されているのです。芝浦とは、現在、増上寺や東京タワーなどがある街芝海岸を意味する芝の裏と呼ばれたのが始まりで、その後時代を経て芝浦となります。
江戸時代芝浦は、干潟であり、大部分が海になっていました。江戸前の魚などが取れる自然豊かな漁村として知られるのと同時に、海風そよぐ避暑地として料亭が軒を連ねていたのです。
江戸時代後期の記録には、芝一体の特産物として、貝類、うなぎ、芝エビ、コチ、黒鯛、雑魚と記されており、これら採れたての海産物が、芝浦沿いの料亭で調理され客をもてなしたことから、江戸前の粋の良い魚をシバ魚と称するようになりました。
中でも、芝エビは珍味の一つとされ、江戸時代の名産を記した『周囲 続・江戸砂子』にも「芝エビ、芝浦の名産なり云々」とあります。芝エビという名前の由来は地名の柴ですが、残念ながら20世紀後半には、芝浦の芝エビは取れなくなったそうです。
明治5年、新橋・横浜間に鉄道が開通すると、芝周辺は将来の発展を見込んで、温泉旅館や魚問屋から転業した活魚料理の料亭老舗が軒を連ねます。さらに、花火見物や月見の調合師として、花街として賑わいを見せるのです。
明治の末から昭和の初め隅田川河口の改良工事が行われると、そこから生まれた大量の土砂によって埋め立てが拡張され、周辺の景色は一変します。関東大震災直後には、資材の運送などで賑わい生産業者や新興産業も増え、東京復興の先陣を切るように新たな街として活気が増していきました。
芝浦が現在の趣となったのは、第二次対戦後の高度成長期に入ると東京湾も近代化機械化し港町としての機能も弱くなりました。
10年後、郊外へと移転しオフィス内へと変わっていったので、今や竹芝、日の出埠頭からお台場や浅草をつなぐ水上バス東京湾を巡るクルーズ船が発着するなど、外国人観光客にも人気のウォーターフロント芝浦。
ただ、バブルの頃を知る世代にとって芝浦という音色は、心地の良い水音というよりも高速テンポと重たい人のハードコアテクノを呼び起こし、とりあえず、一段高いところから男の子達を見下ろしたくなるのです。
Comentários