船橋と太宰
JR 船橋駅から東京湾に向かって歩くこと15分。割烹旅館玉川を訪ねると、取り壊しが決まった風情あふれる建築物の外観をカメラに収める何組かの女性の姿がありました。
大正10年創業建物は、国の登録有形文化財になっている玉川ですが、この中で、利用客が激減するなど時代のうねりに逆らえず、今年4月末をもって一世紀に渡る歴史に幕を下ろしたのです。
この玉川は、ある小説家が足繁く通った宿として知られていました太宰治です。開業当時は、海に面していた旅館玉川の館内でも海の見える光景を好んで「桔梗の間」という部屋を利用した太宰治。執筆活動のために10日間宿泊すれば、滞在費用を払うことができずに、その方として、本や万年筆を旅館に取られるなど太宰らしいエピソードが残っているのです。
昭和10年7月に船橋に引っ越してきた太宰治。市街を流れる海老川が近い場所に新居を構えます。太宰治26歳の時です。
この歳は、盲腸炎から腹膜炎を患い阿佐ヶ谷の篠原病院に入院しますが、ここで、鎮痛剤として使われたパビナールという薬の依存症となってしまいます。昭和10年6月、中毒治療で入院していた協同病院を退院すると、療養のため船橋に引っ越してきたのです。
「私が、初めて船橋に太宰を訪ねて行った時は、
南の縁側に腰を下ろし、ぼんやりと薄目を開けながら、
彼はビールを飲んでいた。」
友人だった作家・檀一雄は、小説『太宰治』の中で、そう記しています。それまで、売れなかった小説家だった太宰が、作家として願いを叶えたのは、船橋が初めてでした。
太宰の住まいは海老川に架かる九重橋を渡って、すぐのところにありました。
太宰は、近所の庭先で見かけた夾竹桃に一目惚れし、頼み込んで分けてもらうと自宅の庭に植えたのだそうです。当時では珍しかった夾竹桃。「夾竹桃だよ」と檀一雄が訪れたときも嬉しそうにそう語っていたそうです。
その後、太宰はこの自宅を引き払うこととなるのですが、その時にも、庭に植えた夾竹桃への愛着を口にし、涙したと伝えられているのです。
夕暮れ。おそらく太宰も眺めていたであろう海老川の水風景をスケッチしようと九重橋を尋ねると、すぐそばを京成電鉄と JR の鉄橋がまたぎ、川沿いの遊歩道をジョギングするランナーの姿がありました。面白い音風景なので録音機におさめようと回し始めると、突然、一匹のカエルの鳴き声が。
ぎょっとして、私の気を引こうと太宰治がいたずらしているのかもしれません。
昭和23年に北多摩郡三鷹町(現:三鷹市)の玉川上水に入水し、39歳で早世しました。
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