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老舗下屋敷庭園

 新発田市は、越後平野の北部に位置し、新潟市に隣接する中核都市です。江戸時代には10万石の城下町として栄え、現在でも歴史的の遺産を街の随所に留めているのです。



 新発田藩の利用する水は、掘抜き井戸から得られる地下水でした。しかし、この地下水には鉄分が多く、飲み水には適さないものも多くありました。

 江戸時代、新発田藩士となった溝口秀勝は、新発田城の構築と城下町の形成・防御のため新たに川を開削します。新発田川です。

 この新発田川によって、新発田の町は飛躍的に栄えることとなるのです。


 JR 新発田駅を出て西へ進むと、ほどなく県道14号線を横切るように新発田川が、流れています。水面の下手に水草が揺れれ、清冽な川に沿うように進むと見えてくるのが名園として知られる老舗下屋敷庭園です。



 1658年、新発田藩三代藩主・溝口信直の時、この地を御用地として、下屋敷を造営したのが始まりで、一体が清水谷と呼ばれていたことから清水谷御殿と称されます。

 敷地面積は、およそ15200平方メートル。4代繁勝の時に、江戸幕府庭方茶人縣宗知を招いて庭園の造営行われました。中央に草書体の水の子を描いた大池3に、近江八景を取り入れた京風の回遊式庭園は、元禄年間に完成したと伝えられています。


 清水谷御殿と呼ばれた書院は、寄棟造(よせむねづくり)は、建築物の屋根形式のひとつで、4方向に傾斜する屋根面をもつもので、歴史的には、東日本 に多く見られ、古代には「東屋」(あずまや)と呼ばれ、贅を尽くした平屋建てで84坪。園内には、他に5つの茶室が点在しているのだそうです。


 

 新発田藩は、藩主の奨励によって茶道が盛んでした。その他にも藩をあげて和菓子づくりにも力を入れ、新しい技術を取り入れながら、質の良いものが作られるようになったと言われています。明治時代になると、この伝統は民間にも広がりました。


 周辺の地主や大きな商家の人々が、冠婚葬祭に欠かせないものとして、取り入れたことで、和菓子は新しい発見をするのです。

 新発田は、越後・穀倉地帯として豊かな農産物に恵まれていたことから、質の良い米や豆類など和菓子作りに必要な材料に事欠きませんでした。



 このような条件が整い、新発田の和菓子の伝統が作り上げられてきたのです。日差しが肌を刺す初夏の新発田ですが、清水谷御殿が軒下を借り、涼風を感じながら美しい庭園を眺めていると、心も身体も癒されます。


 今宵は、宿に戻りお風呂上がり新発田の銘菓「翁もなか」をいただくことといたしましょう。



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