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#福島県 #乙字ヶ滝 #松尾芭蕉


 福島県のほぼ中央部に位置し、郡山市と並ぶ県内屈指の商工業都市・須賀川市。東西を阿武隈、高地・奥羽山脈に挟まれ、なだらかな丘陵地帯の地域を貫くのが、阿武隈川です。


 阿武隈川は、揖斐川の町を南北と蛇行しながら縦断していますが、地域の南の端、ちょうど玉川村との境で大きく 、S字、 Z字に、乙姫様の乙の字に腰をくねらせ北上しています。


 ここには、阿武隈川放流、唯一の滝がありました。乙の字に流れる場所にある滝。乙字ヶ滝です。100 M もある川幅いっぱいにしぶきと轟音ををあげる様は雄大そのもの。乙字ヶ滝は日本の滝百選にも選ばれているのです。



 江戸時代後期、阿武隈川は水運の川として利用されていました。米などの物資を白河方面から港のある仙台へと運んでいたのです。

 そんな、阿武隈川の水運に置いて、川が落莫する乙字ヶ滝は最大の難所とされていました。


 滝に差し掛かると船から一旦荷物を降ろして、滝の下まで担いで運んで、再び船に積み込んでいたのです。そこで、滝の北側の岩壁を掘削し、24年かけて川を作ります。


 これが、明治15年に完成した前田川用水です。前田川用水は、現在も残され、発電に利用されているのです。



 乙字ヶ滝の水風景をそう呼んだのが、俳聖松尾芭蕉です。1689年、松尾芭蕉は 門人苗村千里を伴い、奥の細道の旅に出ました。俳聖芭蕉は伊賀上野の人、通称松尾忠右衛門平宗房といい、祖先は平宗清。藤堂家の臣、松尾与左衛門の次男で、正保元年の生、母は桃地氏、四国宇和島出身と言われています。



 芭蕉は幼名を金作或いは半七、藤十郎或いは甚十郎と呼ばれ、俳号を桃青または芭蕉と称しています。この外に風羅坊、華桃園などとも称していましたが、これらは、いわゆる一時的な筆名に過ぎなかったもののようです。


 主君藤堂良忠の死後、感ずるところあって脱藩、松永貞徳の高弟であった北村季吟に師事して俳諧、和歌、連歌を、また伊藤坦庵について漢詩文を学び、後に造化にしたがい四時を友とし、一身を行雲流水にまかせ、旅から旅に漂白吟行して、生涯を終るを望みとした風雅の人で、蕉風俳諧の始祖となり、西鶴、近松と共に元禄の三文豪とたたえられました。その高雅寛裕の風格が、また万人から慕われ、門人も数千に及びました。



 芭蕉翁が片雲の風に誘われ遊心やみがたく、門人曾良を伴い、まだ見ぬ異境の空、はるかみちのくの天地に思いを馳せ、江戸深川六間堀の芭蕉庵から遠く奥羽行脚の長途の旅に一歩を印したのは、元禄2年(1689)の晩春、正しくは旧3月27日であります。芭蕉翁46歳、曾良41歳のときでした。


 こうした旅に出ようとする翁の真意は、いにしえの歌枕を尋ねて俳境をふかめ、進んで俳風の新機軸をもとめようとしたものでしょう。そのほかに西行や能因などの跡を慕う気持ちも多分にあったことは見逃せない部分です。


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