社交ダンスって なに
社交ダンスとは
日本で初めてダンスが踊られたのは
そもそも、踊りは神に五穀豊穣や家内安全等を願い捧げる神聖なものとして、古来より、生活に密着していました。この踊りが、文明開化の流れとともに大きく変わったのは、1883年(明治16年)に、千代田区内幸町に迎賓のシンボルともいえるべき「鹿鳴館」がオープンしたことです。西洋音楽に合わせ踊り、多くの人と親交を深めていく社交のダンス(以下、ダンスと略す)は、一大センセーションを起こしたのでした。
社交ダンスの歴史的背景
江戸時代末期のペルーが日本にやってきて以降、芽生えたダンスは識者などの圧倒的な支持もあり、≪上階級のたしなみ≫として社交場で踊られるようになっていきました。
ダンスは、時代が変わり昭和になると、≪上階級のたしなみ≫としていた特権階級のダンスから、一般大衆のダンスへと裾野を広げ始めた。1920年(大正9年)、鶴見に日本初のダンスホール『花月園』がオープンすると、そのことを耳にした人々が連日押し寄せ、大盛況。第1 期ダンスブームとなりました。
関東大震災で大変革
1923年(大正12年)、関東大震災の衝撃は、ダンスにも多大な影響を及ぼした。ダンスホールのほとんどが全壊しました。このことにより、新たなダンスホールの建設が始まり、赤坂では『フロリダ』がオープンし、大阪圏でもダンスホールの建設ラッシュが起こり、東京・大阪を拠点に、第2 期ダンスブームとなりました。
戦後体制の激化で低迷期へ
戦争後、治安が安定しない社会情勢から、教養・娯楽として親しまれ始めていたダンスは、生活優先が叫ばれる最中、低迷期と入っていく。また、風俗営業の枠の中に押し込められ、女性客はホール入場禁止になるなど、イメージダウンされるという逆風にもさらされた。このころ、ダンス教室の閉鎖も相次ぎ暗雲が立ち込める日々となった。
昭和30年代、ダンスホールが急成長
高度経済成長、生活の活気回復に比例して、教養・娯楽を楽しむ余裕ができました。このころ、豪華絢爛なショーで人々を魅了していたキャバレーとダンスがコラボレーションしたタイプのホールが大人気となり、第3期ダンスブームとなりました。
さらに、『昭和40年代になると、本来、ダンスはスポーツ』であることを認められ、風俗営業の枠から外れ、ダンスはキャバレーからも独立し、このころから営業した有楽町の東宝ダンスホールや鴬谷の新世紀ダンスホールなど盤石な人気を有しています。
第4期ダンスブームはメディアから
戦後、半世紀弱を折り返そうとしている1984年(昭和59年)、高度経済成長は、意外な影響を露呈し始めた。それは、少子・高齢化の波動です。この年、厚労省は白書などで、「日本は世界一の長寿国」と発表するなど、今日の現状を予感させるものでした。
NHKでは、高齢化社会に対する番組制作の一つとして、世界選手権第三位の篠田学夫妻を講師として招き、「レッツダンス」を放映。世界で通用するダンスのテクニックをNHKで放映するという前代未聞のこの番組は、その後、講師を変えて続編が放映されるなど、名実共に、ダンスの底辺拡大に多大な影響を及ぼし、ダンス愛好家に語り継がれるほどの黄金期となりました。
ダンスの種類
現在、コンペスターなどで審査種目となっているのは、10種目で、ワルツ、タンゴ、フォックストロット、クイックステップ、ウインナーワルツとルンバ、チャチャチャ、サンバ、パソドブレ、ジャイブです。ワルツはオーストリア、タンゴはアルゼンチン。そして、ルンバはキューバ、サンバはブラジルなど世界各国を代表するダンスです。このダンスを踊ることによって、小さな世界一周ができることもダンスの楽しみといえるのではないでしょうか。
ダンスの機能
ダンスは、マナー・エチケットを重んじた室内スポーツとして、心身を若返らせる効果を多くの医学関係者も提唱しています。足腰を丈夫にし、ストレス発散に絶大な効果があることは、おおくの先輩たちが体験済みです。1曲2分前後と短く、苦痛を感じさせない長さなどの特色も挙げられます。
また、『男と女のときめき』がより若々しくさせる。女性は、「より若々しく より美しく」、男性は、たくましく、思いやりに溢れ、清潔感とオシャレが身を飾るようになる。このようなスポーツは類例を見ないと考えます。
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