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#東京オリンピクック #アベベ #円谷幸吉


 福島県、ほぼ中央に位置する須賀川市。市域を縦断する釈迦堂川は、春は、桜の名所、夏は1万発の花火が打ち上げられるなど、市民から親しまれる水面です。

 そんな釈迦堂川から、ほどない場所にある古刹。かの松尾芭蕉の『奥の細道』の旅の途中参拝したと伝えられる十念寺に、日本中を沸かせたマラソンランナーのお墓がありました。


 自ら命を絶った理由は、様々な憶測がなされましたが、スポーツ界全体が、アスリートの心のケアを痛感した出来事となったのです。


 1964年、東京オリンピクック陸上競技のフィナーレを飾るマラソン史上、初の2連覇を飾ったエチオピアのアベベから遅れること4分。2番目に国立競技場に入ってきたのは日本人でした。円谷幸吉です。



 しかし、直後に3番目の選手も入ってきます。ラストスパートをかけ、円谷との間を詰めてくるイギリスのイギリスベイジル・ヒートリーに、巨大な競技場の大歓声が、悲鳴混じりとなりますが、円谷幸吉は、後ろを気にするそぶりさえ見せません。

 幸吉は、ゴールまであと200 M というところで追い抜かれ、3位でゴールする激的な映像は記憶に残るシーンです。


 メダルの色は、直前で変わってしまいましたが、陸上競技では、28年ぶり戦後初のメダリストとして、国立競技場のポールに日の丸が上がりました。


 「4年後のメキシコで雪辱を晴らします」そう答えていた幸吉ですが、それは叶わない夢となるのです。


 1940年5月13日、円谷幸吉は、福島県須賀川市の農家で、7人兄弟の末っ子として生まれます。一度も後ろを振り向かずに走り続けた愚直な姿は、父親の教えでした。小学校の運動会で先頭走りながら、しょっちゅう後ろを振り返る児童を見た父親が、「後ろを見るな。お前は、あんなみっともないことをやるな」そう幸吉に話します。後ろを振り返る余力があるなら、最後まで精一杯走れ。父親は、そう伝えたかったのです。


 幸吉は、どこへ行っても、礼儀正しく責任感が強く、周りから好かれていたそうです。顔は、厳つかったけどね。静かで優しい人だったなあ。空いた時間は、いつも走っててね。以前、取材で熊本を訪ねた際、昔、自衛隊にいたというタクシーの運転士さんが、話していたのを思い出します。


 円谷幸吉とともに東京オリンピックに出場し、期待されながらも8位となった君原健二さんは、幸吉が目指したメキシコオリンピックで、見事に雪辱を晴らします。それは、ライバルであり、友でもあった幸吉に捧げる銀メダルでした。須賀川市では、毎年秋、円谷幸吉メモリアルマラソンを開催していますが、君原さんは、ほぼ毎回参加しているそうです。そして、欠かさず十念寺の幸吉のお墓を尋ねるとビールを酌み交わしているのだそうです 。


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