新発田城からほどない場所に、ゆかりの人物の記念館
花嫁人形の作者としても知られる蕗谷虹児。
新潟県新発田市かじ川の水を掘りに引き入れて、周囲を固めたところから浮舟城、船形城とも呼ばれる新発田城からほどない場所に、新発田市ゆかりの人物の記念館がありました。花嫁人形の作者としても知られる蕗谷虹児です。
明治31年、父親20歳母親15歳という若い夫婦の長男として、新発田で生まれます。実家が、小さな活版業を営んでいましたが、父親が無類の酒飲みだったため、病弱な母親が髪結いの仕事をしたりして、家計を助けていました。幼い頃の彼は、そんな母親の傍らで髪結いで美しくなっていく女性を眺めながら、育ったと語っています。
しかし、苦しい家計を切り盛りし、新発田市美人と評判だった自慢の母親は、蕗谷虹児が12歳の時に27歳という若さで亡くなります。この幼少の時代の体験が、のちの蕗谷虹児の作風の原点となったと言われているのです。
母親が亡くなって、ほどなく一家は、離散すると新潟市の印刷工場で丁稚奉公をしながら、大好きだった絵の勉強に励んでいた蕗谷虹児にチャンスが訪れます。
14歳の時、絵の才能を新潟市長に認められると上京し、東京の日本画家・大竹ちくわの画塾で学ぶことになるのです。
その後、各地を渡り歩く放浪画家の生活を送っていた。蕗谷虹児でしたが21歳の時に、再び上京し、デザインの授業始めます。そして、大正9年に竹久夢二と出会うのです。この竹久夢二との出会いがチャンスとなりデビューを果たすと、朝日新聞の連載小説の挿絵や少女画報、少女クラブなどの雑誌の表紙や挿絵を担当し、全国的にも名前が知られるようになります。
大正13年に発表された抒情歌『花嫁人形』。この名曲も偶然の縁から生まれたものでした。当時、西城八十の詩に挿し絵をつけて仕事をしていた蕗谷虹児は、この日、編集部の部屋に待機させられ、の原稿が届くのを待っていました。
しかし、いつまで待っても届きません。締め切りギリギリ、痺れを切らした編集者は蕗谷虹児に詩と挿し絵のの両方を依頼します。そして、わずか2時間で書き上げたのが、『花嫁人形』なのです。
その後、杉山長谷夫が曲をつけ叙情歌となり蕗谷虹児の代表作となった『花嫁人形』は、若くして亡くなった、美しいままで記憶に残る最愛の母がモデルと言われているのです。
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