#敵に塩を送る #上杉謙信 #越後屋
地球の表面積のおよそ約70%が、海で覆われており、海水の中だけでなく、塩の塊があり、岩塩となるなど、広く存在しています。世界の塩の生産量のおよそ2/3が、岩塩から作られているのです。
残念ながら日本には、塩資源となる岩塩は存在しませんでした。四方を海に囲まれた島国・日本では、古来、海水から塩を精製してきたのです。
瀬戸内海など、沿岸部で生成し た塩を船で各地の港まで輸送し、そこから小船に積み替え、川を使って、内陸部の町へ、さらに牛や馬の背に揺られて、奥地へと運ばれていました。実際、日本各地には、牛馬で塩を運ぶための街道があり、それらは塩の道と呼ばれていたのです。
戦国時代、長年敵対関係にあった武田信玄と上杉謙信とのエピソードから、『敵に塩を送る』という言葉が生まれています。これは、甲斐の武田信玄との関係を悪化させた駿河の今川氏真が、塩の道を抑え、塩の供給を完全に遮断したことに始まります。それを見かねた上杉謙信が、信玄に塩を供給したということから、『敵に塩を送る』ということわざが生まれたのですが、これは、別に上杉謙信がわざわざ甲斐国に塩を送ったというわけではありませんでした。日本海に面した、越後から海のない内陸の甲斐へと通ずる塩の道を止めなかった。最大のライバルが治める国の窮地でありながら、意地悪く塩対応しなかったということが、義を重んじる上杉謙信の美談にアレンジされているのです。
この時、越後の塩商人たちは大儲けしたそうです。太平洋に面した静岡県内には、宇治川沿いの身延街道と遠州から菊川、掛川を経て信州に至る信州街道という塩の道があります。信州街道は、別名・秋葉道、秋葉街道とも呼ばれました。これは、火災など火の災難・家内除けの神を祀る秋葉神社がある現在の浜松市春野町の秋葉山への参詣道でもあったためです。
交通機関の発達や車道の整備で、かつての塩の道はわかりにくくなっていますが、掛川市内に残る秋葉参詣の常夜灯や江戸時代の道標に往時の街道の面影をたどることができるのです。
蒸し暑い日本の夏。たまらずクーラーの効いたお店に飛び込んで涼んでいると、前の席にいるおじ様の紺色のポロシャツの背中に、くっきりと塩の模様・塩の道が浮き出ていることがあります。夏の風物詩でもあるそれを目にするたびに、そうか汗も塩分を含んでいるのだな。人間には塩分の補給は、欠かせないのだなあ。と、しみじみしながら、紺地にくっきりと浮き上がった、果てしない塩道の行き先を、あみだくじのように,たどるのでした。
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