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#掛川市 #山内一豊


 静岡県の西部・東海道の難所とされた大河大井川と天竜川のほぼ中間にある掛川市は、市域を横断する坂川のある、のどかな小都市です。

 掛川という地名の起こりは、かつて暴れ川であって坂川によって、度々、堤防が欠けていたことから欠ける川・掛川になったとか、平将門を討ち取った藤原秀郷が、一族郎党の首を持って京へ向かう途中、この地で首実見をし、首を川にかけ並べたことから、かけ並べたから掛川と呼ばれるようになったとか、諸説様々です 。


 JR 掛川駅の北口を出て、ほどなく視線の前方小高い丘の上に見えてくる天守が掛川城です。15世紀末、今川氏の家臣・朝比奈康弘が、掛川城、下町の基礎を作ります。南に坂川を配する楊梅の地で、戦国時代には遠江(といとうみ)の東の関門として、いく度となく戦乱の舞台となっていたのです。



 本丸の井戸から、霧が立ち込め城を包み込み守ったという伝承から、別名・雲霧城とも呼ばれていた掛川城でしたが、狡猾な徳川軍の攻撃についに落城し、家康の支配下となります。

 1590年、秀吉の命令によって家康が、三河から江戸へ国替えになると、新たな上司として、大河ドラマの主人公にもなったあの人物が、掛川城に入ります。山内一豊です。


 城の大改築が行われ、天守閣が建てられたのもこのころでした。山内一豊は、掛川の城下町を街道の宿場を取り込んだ、商業都市へと作り変え、さらに、関東の家康を睨む豊臣政権の防衛網を構築したのです。

 しかし、城の備えとは反対に、家康に対して敵意を持っていたわけではありませんでした。家康、秀忠親子や徳川家の家臣が、江戸から関西を往来する際、ご馳走したり宿泊の便宜、さらに馬の手配をするなど細やかな心遣いを見せていました。家康が、これに感謝して出した書状も残っているのです。



 これが、信長、秀吉、家康の天下人、三代に仕えた山内一豊の一流の処世術であり、司馬遼太郎の功名が辻で描かれた献身的な妻・千代の情報もに耳を傾けた、一豊の懐の深さによるものだとも言われています。

 1854年に起きた安政の大地震によって、城の建物の大半は損壊してします。御殿、太鼓やぐら、ふきのもんは、1855年から61年にかけて再建され、さらに、1994年には、およそ一世紀半ぶりに木造の天守閣が復活します。

 大阪出張など東海道新幹線に乗車した折は、降りでしたら大井川。上りだったら天竜川の水面を超えたら、しばらく、北側の景色をご覧ください。車窓に映る何とも面構えのいい天守閣こそ掛川城でございます。


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