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#庄内平野 #酒井家


 山形県の日本海側に広がる庄内平野は、大河・最上川と赤川の堆積作用によってできた平野で、日本有数の穀倉地帯として知られています。

 庄内平野の北部には、昭和世代には朝ドラおしんの舞台でおなじみの港町・酒田市があり、その下を眺めのが鶴岡市なのです。

 鶴岡市街地を潤す内川と青龍寺川は、酒田市との境で赤川に合流する川です。その内川と青龍寺川を東西の堀に見立てるように立っていたのが、鶴ヶ岡城でした。

 この鶴岡城を拠点に城下町を築いたのが、庄内藩主・徳川四天王の筆頭として名高い酒井家です。


 酒井氏の末裔は、明治維新後も鶴岡の街を離れることなく代々この家に住まわれているのですが、これは全国でも見られないことなのだそうです。

 鶴岡の地に最初に城を築いたのは、鎌倉時代の武藤氏でした。このころはまだ、鶴ヶ城ではなく、大宝寺城または大分寺城と呼ばれていたそうです。


 1590年、庄内地方が越後の上杉領となると、直江兼続によって、城の改修が行われます。1600年の関ヶ原の戦いの後、山形の最上領となると、最上義光は、城下の整備と後ろの周知を行う城の名前を鶴岡城と改称しました。


 ちなみに若狭国・小浜藩主で、幕府の大老を務めた酒井忠勝は、同姓同名の別人です。ほぼ同じ時代に存在した、7歳違いの大名二人の酒井忠勝さん。おそらく、主君であった2代将軍徳川秀忠の忠という字を頂き、その下に縁起のいい戦に勝つの勝つという字を置いているのだと思いますが、同姓同名でしかも同じ時代なので、うっかりすると混同してしまいます。

 最上氏は3代義俊元和8年(1622年)に、お家騒動最上騒動)があり、改易となった。旧最上領は分割され、庄内地方には信濃国松代城より譜代大名酒井忠勝が入った。忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定め、亀ヶ崎城を支城とした。忠勝は入封すると、簡素な造りであった鶴ヶ岡城を近世城郭へと大改修に着手した。二の丸、三の丸を拡充し、城下町の整備を行った。庄内藩の本城としての偉容が完成したのは、3代忠義の時であり54年の歳月が費やされた。本丸は一部に石垣が使用されたが大半が土塁であり、幅約20mの水堀に囲まれている。本丸内には御殿と北西隅の二重櫓が天守代用としてあり、他に単層2階の他門櫓が2基上がり本丸の城門は櫓門が上がっていた。二の丸東南隅に2重櫓、二の丸の城門も全て櫓門であった。宝永元年(1704年)には、鬼門である東北隅に稲荷神社が勧進され、毎年の初午祭礼の際には町人も城内に入って参詣することができた。以来、初代忠勝から11代酒井忠文まで200年に渡り庄内藩138000石酒井家の拠点となるのです。


 さて、庄内藩初代藩主となった酒井忠勝は鶴岡城の城郭拡張工事を行います。最上義光以来の上位きよ本丸西、その周囲に、二の丸三の丸は廃止た輪郭式の平城を築くと城下町の整備も進めるのです鶴岡公園と呼ばれ市民に親しまれる上席を訪ねるとお堀の中に設置された噴水が涼しげな水音を奏で芝生が広がる運動場を走り回る子供たちの声が聞こえていました領民に寄り添った反省を行い家臣からも庶民からも尊敬されていたと伝わる高いのお殿様広い敷地もどこかでこの風景を見守っていることでしょう


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