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#岡山県井原市 #北条早雲

 岡山県井原市を東西に貫く小田川。その小田川に寄り添うように走る井原鉄道。早雲の里・荏原駅から北東におよそ1.5 km のところに高越城跡があります。


 高越城は、戦国時代の初めを駆け抜けたある武将ゆかりの城でした。北条早雲です。

 北条早雲と言うと、小田原・北条氏の始祖であり、斎藤道三や松永久秀とともに戦国の三大梟雄と呼ばれ、羊も定かでない身分から、一国一城の主へと駆け上がった国盗人・下克上の申し子と伝えられてきました。


 しかし、近年の研究では、実は、名門一族の出身で室町幕府の要職を務めた。いわば、エリート官僚出身の武将とされているのです。

 ちなみに、梟雄(きょうゆう)とは、荒々しくも強い英雄のことですが、悪事にたけている英雄の意味もあり、英雄としての力強さと、悪党としての狡猾さを兼ね備えた存在であるという意味もあるようです。こういった人物は乱世になると現れやすいです。

 なぜフクロウを意味するの字が使われているのかというと、フクロウは雛鳥が親を食べるという迷信があったからのようです。



 別名、伊勢新九郎は、現在の井原市の東部に勢力を持っていた一族・備中伊勢氏の出身でした。

 父は室町幕府奉公衆で、備中・備前治めていた伊勢盛定。また姉は、後に駿河の国を治める今川義忠の妻・北川殿となります。その子が、戦国大名今川氏の初代となる今川氏親。氏親が、今川義元の父です。


 つまり、北条早雲にとって、今川義元は甥っ子にあたるのです。


 元服した早雲は、父と同じように室町幕府に使えるようになります。この頃、今日の姉の嫁ぎ先である駿河の今川家に跡目争いが起こります。この争いを上手く収めた功績で、早雲は今川氏から駿河興国寺城を与えられ、現在の静岡県沼津市から富士市にかけての一帯を収める。戦国大名として歴史に登場することとなるのです。


 しかし、領主になっても、おごることなく、贅沢もせず、また領民の年貢を軽くしたり、病人を救ったりするのです。

 この時代の武将には見られない、いわば福祉国家政策を進め、領民から厚い信頼を得ていたようです。

 その後、相模全土を手中にしますが、1519年、伊豆韮山城でなくなります。

 享年64とも88であったとも言われ、戦国武将として動き出し、歴史に登場したのは高齢となり、本来なら隠居に入る晩年であったと言われているのです。


 北条早雲が築いた小田原・北条氏は1590年、豊臣秀吉に攻められ、5代で滅びますが、その後、この地を治めることとなった徳川家康は、北条氏を慕う領民たちから猛烈な抵抗に遭い、苦労したと伝わります。

 北条早雲誕生の地の記念碑が建つ高越城駅からは、井原の街並みと街を貫く川、小田川が一望できました。小田川と小田原生まれ故郷の皮とよく似た名前の小田原での国づくりは。幼き頃から夢見た早雲にとっての理想郷だったのかもしれません、


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