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大河津分水路


 全国各地を連れ回し、既に2代目となった愛用の小ぶりのキャリーバッグを見ると、上越新幹線 MAX ときの車窓から降り注ぐ朝日が、細かな溝の埃を照らしていました。

 不要・不急の外出を控えてください。から、2ヶ月ぶり。久しぶりの旅先は、2ヶ月前に尋ねる予定だった新潟県の燕市でした。

 日本海に面し、日本列島の地形をそのまま小さくしたような形の細長い新潟県。細長い新潟県のほぼ中央にある燕市は、日本一の大河・信濃川とその支流が市内を貫いています。


かつての信濃川は、豪雨になるたびに氾濫し、周辺の人々を苦しめた暴れ川でした。中でも、洪水が頻発した下流域の人々は、河川によって形成された開発地に進出し、居を構え、災害の中、少しずつ耕地を広げ、生活を維持していたのです。

 そんな信濃川の水を分散させ、日本海に流し出すことで水害から解き放とうと考えられたのが、現在の燕市の南のふちに沿って流れる大河津分水路(おおこうずぶんすいろ)です。分水路は、江戸時代を通して多くの人により考案され、幕府に繰り返し請願されていました。


 しかし、信濃川の水を途中で海に放出することで用水不足をきたす村々があったり、川の流水量が不足することで、河口に土砂が堆積した浅くなり、港の機能が低下するなど反対する村もあり、なかなか計画はすみませんでした。



 それでも被害に悩む流域の人々の熱意にあって、明治42年に着工。およそ1000万人の労力と難工事の末、15年の歳月をかけ、全長およそ10キロ幅280 M から727 M の分水路が完成したのです。


 これにより、信濃川の全干害面積の8割にあたる62900ヘクタールの耕地が、水害から解放されることになりました。下流の地域は、日本屈指の穀倉地帯として、ゆるぎないものとなっていたのです。

大河津分水路の辺にある分水公園は、難工事の中で亡くなった104名の殉職者を祀る慰霊碑や工事に向け、工事記録写真を展示する記念館などがあります。園内を堤防沿いには、ソメイヨシノ3000本があり、県内でも有数の桜の名所として知られております。

 例年4月中旬には、満開の桜並木の下で花魁(おいらん)道中が行われています。なぜ花魁道中なのか、地元の方に尋ねると、15年間に渡る難工事には全国からたくさんの男たちが集まっていました。

 その中で、次第に女たちもやってきて花街ができると、大いに賑わったのだそうです。大河津分水路が築かれたこの地は、分水という地名となって燕市に残り、長きに渡った人々の夢と情熱を後世に伝えているのです。


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