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#大月 源 #鍛冶屋 #名刀

 

 吉井川、旭川、高梁川の三大河川の上流にあたる中国山地は、古来より砂鉄の山として有名でした。近代以前の日本の製鉄の主流は、砂鉄を含んだ土砂を大量の水を使った「鉄穴流し(かんなながし)」という方法を利用していました。

 この、鉄穴流しは、砂鉄を多く含む岩石を下流に流し、比重差によって砂鉄を取り出す分離法で最終的に80%以上の純度となった砂鉄を採集することが可能でした。

 ただ、この方法は、莫大な労働力により山を切り崩し、川に大量の土砂が沈殿してしまう。悪影響もあったのですが、それは、またの機会にお話しましょう。

 豊富な水と原料に恵まれた岡山県は、古代から日本刀や農具など、鉄器の生産で知られた町だったのです。井原市を含む岡山県西部、備中には優れた刀工集団がありました。中でも戦国の世とともに、備中一圓に勢力を広げた一派が国重派です。



 日本にたった一人しかいない女刀鍛冶・大月源が誕生したのも国重派でした。源は、1733年、享保(きょうほう)18年生まれ。備中(びっちゅう)後月郡(しつきぐん)荏原(えばら)郷(岡山県井原(いばら)市)の水田伝十郎国重の娘。16歳で父をうしない,世話になった伯父伴十郎国重も5年後に死去

十二代目の甚兵衛国重と結婚しました。夫は病弱で刀を作れないので、家系存続の為に彼女が刀工の道を選びました。自分に先がないことを悟った伴十郎は、源に刀鍛冶の秘宝伝授し、荏原国重派の存続を託しました。

中でも、最後に行う水を使っての焼き入れで、刀とは水を持って完成させると言われるほど、最後の焼き入れは、刀工の秘中の秘でした。

刀剣の製作工程には、旧暦の2月と8月が多く含まれています。旧暦の2月と8月が、新暦では、春分の日と秋分の日のある3月と9月にあたります。ここは一年で、最も水温が安定している季節であることから、この時の水温を基準にしているのです。

 源は、叔父から授かった技をつかもうと、日夜励みますが、女の力では思うように作業が進まず、納得のいく刀が打てませんでした。悩んだ源は、技が上達するう、近くの天神さまに100日の願かけをします。すると満願の翌日、刀鍛冶の諸国修行していた男が村に立ち寄ります。


 そして、一瞬にして源の素質を見抜き、及ばないところを補ってやろうと、丁寧に教えを授けました。これを機に源は、見違えるような刀を作るようになり、やがて、女国重として、その名が遠くに知れ渡るようになったのです。


 小田川が貫く、井原の街並みを一望する高越城跡。戦国武将・北条早雲ゆかりの城が、頂にあった山の麓に、石に刻まれた記念碑が立っていました。大月源の住居があったとされる場所です。大月源は、小柄でありながらも、鋭く印象的な眼差しをしていたと伝わります。

 以前、女優の柴咲コウさんにお目にかかったときも、映画やドラマの印象と違い、小柄な方で驚きました。もしかしたら、柴咲コウさんのような女性だったのかも。運命に翻弄された女刀鍛冶大月源のたたずまいに思いをはせるのでした。

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