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原爆投下は8月5日が予定だった

 私の母は、昭和二桁の 8月6日生まれ。私としては、母の誕生日を忘れないで済みますが、母は、どのような思いで誕生日を迎えていてのでしょうか(・・?

 


 

 1945年、当時の私の祖父は、広島市の警察署に勤め、広島市内の官舎に住んでいました。祖母は子供達3人。私の父と、その姉二人と広島市内からかなり離れた広島県の北にある庄原という場所に住んでいました。いわゆる単身赴任です。

  祖母と祖父は、1945年8月6日の朝8時15分頃、電話をしようと前もって約束をしていたそうです。その日、祖母は家に電話機がないので、近所の郵便局にあった電話機から電話をかけに出かけたのですが、繋がったと思ったら、急に切れてしもうた。かけ直しても繋がらんのよ。おかしいわと祖母に言いながら自宅に戻ってきたそうです。

 1945年8月6日の朝8時15分というのは、まさに原爆が投下されたその時刻であり、どうやら広島市内に大きな爆弾が落とされたらしいと聞いた祖母は、数日後、お腹に8ヶ月の赤ちゃんがいながらも、当時2歳だった私の父を負ぶって広島市内に夫を探しに電車で向かいます。焼け野原でめちゃくちゃになった死体だらけの広島市内。身重で2歳の子を連れていた祖母は、歩くのも大変だったそうです。

近くにいた人に事情を話すと、その方の行為で人を呼んで車に乗せてもらい、夫のいたはずの場所へ向かいます。多くの人が傷つきながら歩いているのに、車に乗せてもらって悪いような気がしたそうです。


 

 目的地に着き。電話機があったであろう場所の前を手で掘るように探してみると、そこに夫のものと思われる骨があったそうです。その時、なんだがツーンとするような臭いがしたそうです。それが祖母から聞いた話でした。

 まさに原爆投下のその時刻にそのことを前もって知るはずもない祖母と祖父が、電話で話そうと約束していたことの不思議と息は最後の瞬間に電話線で祖母と一瞬でも繋がっておりそして電話をしていたからこそ、祖母は祖父らしき痕跡を見つけることができたとの偶然のさなりに奇妙な驚きを感じました。


その後、祖母は一人で子供たちを抱えどれだけ苦労したかと思うと果てしない気持ちになります。その時、おなかの中にいた赤ちゃんが2歳で赤痢にかかりなくなってしまいます。しかし祖母は、教師をしながら家の周りの畑で野菜を育て父を含め3人の子らを大学に入れるまで懸命に働きました。祖母は私が中学生の頃なくなりましたが、原爆の話は全くしませんでした。思い出したくなかったのかもしれません。

今回このメールを書くにあたり、インターネットで祖父の名を調べたら新しい事実がわかりました。祖父は原爆投下より以前に、もし広島が被災した場合、握り飯を広島市の近隣の地域から調達するという食料供給計画を発案し、当時の配給課長に上司に伺いを立てていたのでは簡単に行かぬから、これは一つ、二人でやってしまおうと働きかけて二人で動き、やがて、県も協力することになったそうなのです。

実際に原爆投下の後、握り飯の配布がいち早く行われ10日間は主食に困ることがなかったら、その配給課長で、後に広島市長となる浜井信三氏の記録に書かれていました。

 その、浜井信三氏の肉声記録に、このようなものがありました。

 8月5日、これは非常に、われわれとしては不気味な日だったんですけれども、向こうさんの飛行機がビラをまいたということでございました。そのビラの中に、「8月5日に大きな土産を広島へ持って行くから楽しみにして待っておれ」というビラをまいたといううわさが1週間くらい前からたっておったわけです。8月5日は危ないぞと、気をつけなきゃいけないぞという気持ちをわれわれは持っておったわけです。


(午前)8時頃に兄嫁が庭で干し物をしていたら、「Bさん(B29)が何かを落としたよ」と大きな声で言っているんです。飛び起きて、洋服へ手をかけようと思った瞬間でした。ピカッと目がくらむような閃光、伏せると同時にドッと爆風のようなものがやって参りまして、家を木っ端みじんに壊した。


 

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