デリバリーのルーツ
最近は、どうですかね。どちらかと言うと、「デリバリー」という言葉の方が、身近ではありますが、外食がなかなか辛く巣ごもり生活が続く中、いろんなお店のメニューを自宅で楽しめるというのは、本当にありがたい話ですよね。
しかも、普段は出前やっていないとの店もあって、お店も大変なんですが、私たちにとってはとても嬉しいことではあります。
そんな出前という文化が日本では、いつ頃生まれたものなのか。これは、何がきっかけなのかと言うと、実は、大火災がきっかけだったと言われています。
明暦の大火(めいれきのたいか)とは、明暦3年旧暦1月18日から20日(1657年3月2日 - 4日)までに江戸の大半を焼いた大火災。出火の状況から振袖火事(ふりそでかじ)ともいわれました。外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者数については諸説あるが3~10万と記録されています。
復旧が始まりますと、江戸の町に大工さんやとび職左官屋さんなど職人たちが、全国から集まることになったんです。そうすると、当然、職人さんたちの腹ごしらえの場所が必要になります。
こで、江戸の町にたくさん登場したのが、煮売屋(にうりや)です。煮魚・煮豆・煮染など、すぐに食べられる形に調理したお惣菜やお酒を提供するファーストフード店でした。さらに、もっと手っ取り早くササッと食事を済ませたい人のために、簡易的なお店つまり屋台が次々と登場。握り寿司、天ぷら、鰻など野菜も食べられるようになっていたんです。
これは、江戸の町にとってものすごく大きな変化でした。というのも、それまでの江戸の庶民にとって食事は、自宅で食べるもの。一汁一菜でシンプルなものだったんですが、煮売屋や屋台が町に立ち並ぶことで、江戸庶民の生活に外食という新たな文化が芽生えるきっかけになったからです。
そして、こういう変化の中で時を同じくして生まれたのが、担ぎ売りでした。煮売屋のようにお店を出すなら天秤棒を担いで、いろんなものを売り歩く人たちが現れました。しじみ・野菜・魚や豆腐、ところてん・ゆで卵や甘酒など、江戸の町は、まるで町全体がショッピングモールみたいな状態だったようです。この担ぎ売りが、出前のルーツとなります。
彼らの中から、自宅まで食べ物を運ぶ商売のやり方で出前が生まれたんです。特に、茹でた蕎麦を器に入れて、そばつゆを徳利に入れておかもちで担いで配達する。この出前は、江戸中期以降は町の当たり前の風景として定着していったんだそうです。
この文化は、明治、大正、昭和と続いていたわけですが、その中で電話という通信手段が広まり、出前文化は、さらに加速化され、1980年代になるとアメリカからピザのデリバリーが行ってきます。私たちの生活に出前デリバリーが普及していったというわけなんです。
私、覚えてます。初めてピザを頼んだ。もうピザが食事って思ってなかったので、その時夕飯食べた後に、届いたピザの大きさ、どんだけ食べるんだって感じがしましたけども、何かワクワクしたの覚えてます。
ちなみに、昭和のお蕎麦屋さんの出前。ネットで画像検索してみると、これまた凄いんですよ。出前町の人が片20枚も20枚も籠乗せて自転車に乗っているという曲芸ですよね。そんな画像がたくさん出てきます。昭和の時代、出前持ちは職人だった。そして、さらに時間が流れた現在、背中にボックスを背負ってデリバリーの配達にの人たちが大活躍しています。その始まりは、江戸時代にあったということなんです。今日も美味しいご飯に、感謝を込めていただきます。
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