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コロナ時代をどう乗り切るのか キャッシー中島の半生に学ぶ 1

モデル時代、勝野洋との結婚、長女の死、皮膚がん…波瀾万丈の人生を赤裸々に でも涙は見せたくない


 モデルとしてデビュー、その後、タレントとして活躍。俳優の勝野洋と結婚し、2女1男をもうけ、絵に描いたような幸せな家族とともに過ごしてきたキャシー中島。そして、キルトなどパッチワーク作品の第一人者として数々の書籍も出版するなど、マルチな活躍で順風満帆な生活を送ってきた。

 しかし、平成21年に長女の七奈美(享年29)が死去。自身も今年、皮膚がんを患った。波瀾万丈の半生を、今、語った。


 米国人の父、日本人の母の間に生まれたが、5歳の時に父母が離婚。小学校の4年生位までは、母と別々に暮らしていました。5歳から10歳の5年間は、本当に、気がついたことがあるんですよ。可愛がってもらわなければ生きていけないんだってことを。お掃除お手伝いしたりとかすると、このお菓子がもらえるとか、心中に刷り込まれたような気がします。

 やっぱり、他の人の家のお釜のご飯食べる時は、ニコニコして愛想を振りまいていることって大事ですよね。このニコニコが凄い大事で、笑顔で齢を重ねると口角が下がってくるじゃないですか。でも、笑顔だったら気にならないでしょ。それに、この際だから、嫌なこと言うのよ。それが一番笑って、本当にあなたダメなのねぇ。と言うと、本気なのかわからない。私は、本気なんですよね。

《中学生になり、反抗期を迎える。ハーフの自分に対する周囲の目》



 みんなと瞳の色が違うし、髪の毛の色も違うから。目立つから、何をしても怒られて。それに対して反発心が芽生えてきたんです。

 母には「それはあなたが思うだけで、(ハーフであることは)持って生まれたものなんだから、素晴らしいことなのよ」と言われたんですが、母にも反発するようになって、同い年ぐらいの仲間と遊ぶようになったんです。“ザッツ不良”の世界ですよね。ただ、母のことは愛していましたので、学校にはちゃんと行きましたけども。

 《遊びに行く先は横浜の繁華街。当時の横浜には、流行の最先端があった》

 横浜が輝いていた時代。ファッションも音楽も、流行の全てが横浜からスタートしていたんですよ。出かけるときにはミニスカート。

それを見た母が「あなた、それはスカートっていうもんじゃないわよ。腹巻きが下に落ちてきたみたいな感じ」なんて話していましたけど、そんな短いスカートに、白いブーツをはいて。髪を長くして、踊りに夢中になっていましたね」


 《踊っていたのはクラブ、ディスコ。いや、当時は「ゴーゴー喫茶」という場所に出かけていた時代だ》


 『長い髪の少女』のヒットしたゴールデンカップスっていうバンドがやっていた本牧の「ゴールデンカップ」や「イタリアンガーデン」に行っていました。 米兵たちが好んで行くお店で、ファッションも音楽も踊りも一番新しかったので。当時はまだ15歳でしたから、みんなの妹分みたいな感じでした。


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