#かけがわ #高天神城 #ホトトギス
東京駅から新幹線こだまに乗って、およそ1時間40分。新幹線の停車駅がある静岡県掛川市は、かつては東海道の宿場町として賑わった、風情ある小都市です。
あれ掛川だったっけかなぁ。新幹線のアナウンスのイントネーションが気になり、観光案内所で尋ねると、東京のテレビでも掛川で紹介されることが多いそうですが、地元の人間は、皆浜松と同じ掛川(かけが゛わ)なのだそうです。
その掛川は、のどかな風情とは異なり、戦国時代激しい攻防戦が繰り広げられた土地なのです。市内南部標高132 M の覚王山の山頂にあった高天神城は、戦国時代、『高天神を制する者は遠江を制す』と謳われ、武田、徳川、両軍の二回に渡る争奪戦が展開して覇権を競う激戦の舞台となった城です。
室町時代後期には、今川氏によって築かれていたとされています。その後、今川義元が桶狭間で討死すると高天神城は徳川家康の支配下となりました。1574年、父・信玄の志を継いだ武田勝頼が大軍を擁して高天神城に攻め入ります。
一か月にわたる激戦の末、ついに落城。囲碁高天神は武田勝頼の遠江における最大の拠点となるのです。
しかし、徳川家康を黙ってはいませんでした。高天神城奪回すべく、周囲に六つの砦を築き完全に包囲して城を兵糧攻めにします。これに対し、高天神側の岡部元信は武田勝頼に訴状を送り応援を頼みますが、勝頼は甲府に引き上げてしまいました。こうして、およそ10年にもわたる高天神城をめぐる武田、徳川の攻防は幕を閉じたのです。
高天神城があったとされる覚王山を訪ねると、石垣のようなものは見られませんが、鶴翁山の地形を巧みに利用した山城の痕跡が至る所に見られます。武田勝頼に責められ、支配された際、徳川方の家臣・大河内政局が、一人たけ武田方に屈せず、家康が城を奪回するまでの8年間にわたり、幽閉されていたと伝えられる石の牢獄も残っていました。人が、かがんで入れるくらいの小さな牢獄です。
8年後に城から救い出された際、政元は筋力が落ち、狭い中にいたため歩行困難になっていたと伝えられています。
そういえば、黒田官兵衛にも同じエピソードがありました。簡単に殺されなかったということは、そこには、何かしらの逸話があるはずです。大河内政局も耳にしていたであろう、鬱蒼とした木立から響き渡る蝉の声と姿なきウグイスとホトトギスの鳴き声に往事への思いを馳せるので す。
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