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GO TOキャンペーン でも、青森には来ないで下さい。 2

 GO TOキャンペーン でも、青森には来ないで下さい。私の市は絶対ダメです。といったのは、むつ市長。GoTo 「愚かだ」 むつ市長、市内観光施設の休業指示したのは全国ニュースになった。


 寺山修司の人生から少し考えてみたい。



 青森県三沢市。木立が生い茂る森の中に、天才とも奇才とも称された津軽なまりが印象的な人物の記念館がありました。

解かれて 少女の髪に結ばれし 葬儀の花 花言葉かな

寺山修司です。昭和の 啄木とも謳われた歌人であり、詩人であり、劇作家であり、演出家であり、競馬評論家でもあった寺山修司は、9歳から13歳までを青森県三沢市で過ごしました。

かくれんぼ 鬼のままにいておればあったよ。

 4年間でしたが、それは少年寺山修司の感性を鋭く抉った4年間だったのです。昭和10年12月10日寺山修司は、青森県弘前市に生まれます。父親が青森県警の警察官であったため県内を転々としていた修司でしたが、青森市の大空襲で焼け出されると、駅前で寺山食堂を営んでいた叔父を頼って、母親とともに三沢に移ってきたのです。

そして、ここ三沢の家で日本の敗戦を味わい父親が戦地のセレベス島で病死したことを知るのです。


 三沢の子供達とは、どことなく違う洒落た服装。優良可の成績表はオール優。そんな転校生。同級生達はからかい、いじめます。

 寺山修司の監督作品映画『田園に死す』の冒頭に鬼ごっこする子供たちのシーンが出てきますが、あれは、三沢時代のエピソードだと同級生達は語ります。

まだ、同級生の名前を覚えていない修司を鬼にして、何々さんみっけと即座に名前が出てこない修司をからかったのだそうです。

そんな修司でしたが、次第に溶け込み、輪の中にいたと彼らは語ります。

 当時の三沢には本屋が一件しかありませんでしたが、修司は、そこで西條八十や島崎藤村の詩集を買っては、同級生と一緒に読み。彼らとノートに文章を綴りあっていたそうです。独特な字体で知られる寺山修司のサインは、その頃にはできていたそうです。

 昭和23年13歳の修司は、三沢の友人たちの前から忽然と姿を消します。三沢の米軍基地で働いていた母親が、突然、家を出ていたため、青森市の母方の叔父夫婦の家に引き取られたのでした。


 その後、青森高校から早稲田大学へと進学した寺山修司は、時代の寵児として世に出てきます。多彩なジャンルで活躍すれる寺山修司を、三沢の人々は郷土の英雄として誇りに感じていたそうです。木立が生い茂る森の中、整列の湧き水が注ぐ小田内沼の水面を見渡す場所に寺山修司の文学碑がありました。三沢時代の同級生たちが建てたものなのだそうです。

 47年という、決して長いとは言えない生涯を駆け抜けた奇才。小さいどんな鳥だって想像力より高く飛ぶことはできないだろう。百年経ったら帰っておいで、百年たてばその意味わかる。寺山修司が紡いだ言葉は、熟成されたワインのように今を生きる私たちの心を酔わせるのです。


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