GO TOキャンペーン でも、青森には来ないで下さい。
都会の人から見れば、名ばかりの公共交通機関やネオンのない街。と思う人も少なくない。でも、医療機関の水準や受け入れキャパを考慮したらやもえないでしょ。
太平洋無着陸横断飛行にかけた青森の人のプライドから考えてみたい。
青森県三沢市は太平洋に面した町です。
昭和2年のリンドバーグによる大西洋横断飛行に成功すると、次は、太平洋だと強者達が名乗りをあげます。
そして、1931年(昭和6年)10月4日午前7時、三沢の人々に見送られながら、太平洋の浜辺・淋代海岸を35歳のアメリカ人パイロットであるクライド・パングボーンとヒュー・ ハーンドンがミス・ビードル号で太平洋無着陸横断飛行を目指し、三沢市の淋代海岸を飛び立ちました。
昭和6年4月、朝日新聞社は太平洋無着陸横断飛行の最初の成功者に、日本人なら10万円。外国人であれば5万円の懸賞金を出す。と発表しました。大卒初任給が73円サラリーマンの平均年収が、およそ740円の時代です。10万円でも5万円でも、それは、夢の懸賞金でした。
三沢の淋代海岸が出発地として選ばれたのは、ジェット気流に乗りやすく、アメリカ西海岸まで最短の飛行ルートとなるからでした。
三沢の人々は見知らぬ外国人たちに温かく接し、成功を祈って協力を惜しみませんでした。滑走路に暑い杉板を敷き詰めたり、大切な飛行機のために寝ずの番をしたり、出発に際しても二人の機内食を用意します。
栄養があるからと、特産のりんご紅玉20個一緒に持たせたそうです。
こうして、三沢の人々に見送られ出発したミス・ビードル号は、ワシントン州 スポケーンへ向かいましたが、濃い霧に包まれており着陸を断念。続いて同州西部にあるパスコへ向かうも、雲に覆われて着陸することが出来ませんでした。そして、パングボーンの母や兄弟が住み、地形についても熟知していたウェナッチを次の着陸地点として、ウェナッチへ引き返しました。飛行時間41時間10分後、2人の飛行士を乗せたミス・ビードル号は、米国ワシントン州ウェナッチ地区に着陸し、世界初太平洋無着陸横断飛行を成し遂げました。
奇しくもウェナッチは、りんごの産地として知られる街でした。2人に持たせたりんごの返礼として、アメリカから届けられたのが、デリシャスというりんごの接木でした。このデリシャスと青森のりんごを掛け合わせて出来たのが、ムツなど糖度の高い甘いりんごなのだそうです。
淋代海岸を尋ねると、太平洋無着陸横断飛行の記念碑と空を見上げるミスビードル号の実物大の模型が、海風を浴びていました。
淋代海岸の淋代とは、アイヌの言葉を語源とする地名でした。アイヌ語でた入り江を意味します。古来、淋代海岸は砂鉄を多く含む砂浜として知られていたのです。
明治維新の後、青森の家に寄ってきた会津藩の貴族たちは、この砂鉄を拾い集め南部鉄器の原料に売りさばき、生活の糧にしていたそうです。
また、明治新政府から与えられた苗木を育てるなど、貴族たちは刀を鍬に持ち替え、国産のりんご栽培にも尽力しているのでした。
プライドを賭けた挑戦でつながる不思議な絵、運命の巡り合わせのようなものを感じてならないのです 。
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