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上智大学とザビエル


 千代田区紀尾井町。首都高を見上げ、弁慶橋から紀尾井町通りを四谷方面へ進み、紀尾井坂を渡るとすぐ日本で最初のカトリック系の大学上智大学があります。


 上智の学生と聞くと外国語が堪能なイメージがありますが、それもそのはず、上智大学の始まりは、教科書でおなじみのあの人物が大きく関わっていました。

 16世紀のキリスト教宣教師フランシスコザビエルです。フランシスコ・ザビエルは、1506年、兄二人姉二人の5人兄弟の末っ子としてフランスとスペインの間に広がるバスク地方の貴族の家に生まれました。

 この地域は、古くからフランスとスペイン両国の争奪の舞台となった場所で、フランス側についたザビエル家は敗戦を気に没落。ザビエルは、7歳で父を亡くします。兄達が再建のため奔走する中、ザビエルは当時、カトリックの最高学府とされたパリ大学に進学し、立身出世を夢見ます。


 しかし、最愛の母と敬愛する姉が亡くなったことで出生の道を捨て、1534年8月15日、ロヨラ、ザビエル、 ファーブルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立て、カトリック修道会イエズス会を結成します。


 イエズス会では、貧しい人々や病人を助けながら、自らも托鉢して生活し、修道会として認可を受けるほどに人々の信頼を獲得していきました。

 1547年、マラッカで好奇心と知性に溢れた日本人・万次郎と出会い、日本人が高い道徳心旺盛な誠実な生活態度を有する稀有な民族だと知り、日本行きを決意します。


 キリスト教布教のため1549年。フランシスコザビエルは、鹿児島に到着しました。独特な気候風土、食べ物、日本語等の対応に困難を極めますが、本国に、日本人に対する敬愛の念やこれ以上に優れた人々はいない。そう手紙で報告しています。

 そして、自身が勉学に勤しんだパリ大学のような大学を日本の京都に設立し、ヨーロッパとの思想文化の交流拠点にしたいと考え、天皇や将軍に謁見(えっけん)しようと上洛します。しかし、当時の日本は室町幕府の末期。下克上がはびこる戦国時代でした。荒廃する京都の御所で門前払いを受け、失望したザビエルは、わずか10日で京都を去るのです。

 日本の宣教のためには、まず、日本文化に影響を与えた中国の宣教から始めるべきだと考えたザビエルは、1552年中国行きを決行します。

 しかし、中国本土を目前にしながら病に伏し46年の人生を閉じるのでした。フランシスコザビエルが、日本を去って360年後の1913年4月。彼の意志を継いだ人々によって上智大学が開学することとなるのでした。


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