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#豊明市 #一之御前社 #桶狭間の戦い


 愛知県豊明市は、古くから鎌倉街道、東海道の宿駅として開けた町です。観光マップを広げると地域のあちらこちらに大きな池が点在していることに気がつきます。これらは、灌漑(かんがい)用水として、人工的に作られたため池でした。


 市内最大のため池・勅使(ちょくし)池から東へ流れる関川は、沓掛(くつかけ)小学校の傍らを通り境川まで続くおよそ5 km の用水路です。周辺に広がる田んぼのための水路ではありますが、様々な生き物が住んでいることから、地元の小学生たちにとっては、課題学習でおなじみの小川なのだそうです。

 そぼ降る雨の中、訪ねたのは沓掛小学校に寄り添うように鎮座する神社・一之御前社です。この神社には安産のご利益があると伝えられ、多くの妊婦が頂きに訪れる不思議な湧き水かありました。一之御前・霊泉安産水です。

室町時代末期、沓掛城城主近藤伊景の娘は、後奈良天皇の宮女として仕えていましたが、程なくして天皇の子を身ごもります。娘は、菩提寺であった裕福寺に参拝するため郷里へと帰ります。



 その土地、土地に湧き出ていた清水を飲んで喉の渇きを癒したところ、安産に至ったと伝えられていることから、霊泉・安産水と言われるようになったのです。


 小学校の傍らで子供達を見守るように鎮座する一之御前社。きっと、子供好きな神様なのでしょうね。一之御前社から関川を隔ててほどない場所にあるのが、沓掛城址公園です。沓掛城は1560年の桶狭間の戦いの前夜。今川義元が宿泊し軍議を開いた城として知られています。初代城主は、近藤宗光。その後、代々、近藤家が付いていましたが9代近藤景春の時、今川方に組しました。沓掛城は桶狭間の戦いの二日後、織田軍の攻撃を受け落城したと伝えられているのです。


 沓掛城が、その後、桶狭間の戦い最大の功労者として、梁田政綱に与えられました。麒麟がくるでタッキー&翼の今井翼さんが演じたあの武将ねきっとそう思われることでしょう。いえいえ、あの武将ではありません。桶狭間の戦いで最大の恩賞を授かった簗田政綱ですが、今川義元を討ったわせでも、身印をあげたわけでもありません。

 桶狭間で休憩中の今川義元の居場所をいち早く信長に知らせ、襲撃を進言したのが梁田政綱だったのです。織田信長は敵の大将の首を討ち取った者が最も大きな手柄であるという当時の慣習を打ち破り、重要な情報をもたらした功績を最も高く評価したのでした。


 歴史に名を残す桶狭間の戦いは、天下の行方を大きく転換させた戦いであると同時に、戦における価値観が今までの武功から情報へと大きく変わった出来事だったのです。

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