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わが悲しみの夜


アルゼンチンのブェノス・アイレスの南東部、ラ・プラタ川の支流であるリアチエエロ川の河口近くの左岸に口という意味する港町・ポカ。イタリアのジェノバから移民船で上陸した移民や土地を移動する酪農関係者など多彩な人々が集まる場所でした。 港町というと羽振りを利かせているものや大見栄を切っているものも少なくないです。ましてや、長い船旅をしてポカに入港する船員を相手にする酒場が立ち並ぶ巨大繁華街で、しのぎを削りあうヤクザものが集まり治外法権自治区化もしていたようです。

本来、踊りは神に捧げる神聖な感覚ですが、この町では、男女がカップルで自分たちのために踊るタンゴ。ミステリアスなタンゴとして人々の話題になりました。噂が噂を呼び、口コミでブームは波及していきました。しだいに踊り方の基本の形も整い、見ず知らずの人とも容易に楽しめるようになり、街全体が活気を増していきました。

また、音楽として聴かれるようにもなっていく。1917年になって、タンゴはブェノス・アイレスの人々の心情を表している音楽として認知され、一挙に市民権を獲得するにいたります。その契機となった曲が、カルロス・ガルデルの唄った「わが悲しみの夜」でした。

この曲は、ガルデルにとっても初めてのタンゴの曲で、アルゼンチン・タンゴにとっても初めての歌のあるタンゴだった。それまでも、タンゴのリズムで書かれたカンシオーン(歌曲)はあるにはあったが、妙に明るい内容で、ブェノス・アイレスの人々らしさのあるタンゴ・カンシオーン(歌のタンゴ)ではなかったようでしたが、ガルデルの歌声はブェノス・アイレスの人々の心情をみごとに表現し、歌のタンゴのスタイルを確立しただけでなく、ダンスの伴奏音楽というイメージから解放し、タンゴに市民権をもたらしたのでした。

 曲を作ったのはサムエル・カストリオータというピアニストで、曲名も最初は「リタ」だったが、偶然この曲を聴いて閃いた作詞家のパスタアル・コントゥルシが歌詞をつけ、題も「わが悲しみの夜」と変えたのだ。「俺の人生が一番良かったときに/俺を捨てていった女/俺の魂をきずつけ、こころにトゲをのこしたまま‥・…」(西村秀人訳)と

 坂本九と同様に航空機事故に遭遇して他界したガルデル。事故遭遇は本意ではなかったでしょう、最高のアイドルとして君臨しつづけることは功績の偉大さを偲ばせます。


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